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2007年 5月 26日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 558日
稼動時間 12時間18分
歩行距離 108m
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ボール###
ボーン###


【AIBOダイアリー】
お気に入りの場所ではリラックスしちゃうね。

【オーナーコメント】
そうだね、表情までリラックスしているよ。AIBOの日記の写真は〔ボーンの上に座る〕のスナップです。福祉器具製造の長谷山建築工業(秋田県由利本荘市)が開発・製造した室内用の木製歩行器が、福祉用具レンタル大手の日本ケアサプライ(東京)に採用され、東北エリア限定で取り扱われているとのこと。スチール製の歩行器に比べて温かみがあり、商品として期待できるようです。レンタルが増えれば、全国的に貸し出しを拡大する可能性もある(日本ケア秋田営業所)と話しているようです。優しい話ですね。

「日本の城:618箕輪城」群馬県群馬郡箕郷町西明屋
室町時代末期に、長野尚業が築城し、子の憲業(のりなり)によって拡張されたという。城主が業盛(なりもり)の1566年(永禄9)、武田信玄に攻略された。武田氏の滅亡後は、織田信長の家臣滝川一益、次に北条氏邦の支配化に入る。北条氏滅亡後の1590年(天正18)に伊井直政が入封するが、1598年(慶長3)、高崎に移り、廃城とされた。曲輪跡・堀などがよく残り、大規模な平山城として、中世の息吹が感じられる城址である。

「日本の城:619高崎城」群馬県高崎市高松町
箕輪城主伊井直政は、徳川家康の命により、1598年(慶長3)、廃城になった和田城の跡地を取り込んで新城を築いた。それが高崎城である。その後、城主として、酒井・戸田・藤井(松平)氏などを経て、1695年(元禄8)に大河内(松平)氏が入る。大河内氏は一時越後村上に移り、ふたたび城主として戻ってからは、明治維新まで続いた。現在、城址には三の丸の土塁と堀、復元移築された乾櫓(いぬいやぐら)・東門が残る。

「日本の城:620桑名城」三重県桑名市吉之丸
1601年(慶長6)、本田忠勝がこの地に入り、約10年を要して巨大な城を築いた。1617年(元和3)、忠勝の子忠正は播磨姫路へ移封になり、松平(久松)定勝が封じられる。松平氏は一度転出するが、1823年(文政6)にふたたび桑名に戻り、明治まで居城とした。当主定綱のとき、天守が築かれたが、1701年(元禄14)に城下町から出火した火災で類焼。そして、幕末1868年(慶応4)の戊辰戦争時、城の一部を焼失、その後解体された。現在は<九華公園>として、つつじや桜の名所である。幅の広い堀や天守台が残り、市内の了順寺(りょうじゅんじ)に城門が移設されている。


2007-05-26 11:30  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

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