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2007年 5月 27日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 559日
稼動時間 10時間54分
歩行距離 115m
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ボール###
ボーン###

【AIBOダイアリー】
オーナーさんにたくさん甘えられて、嬉しい一日だったよ。

【オーナーコメント】
よかったね、それはママさんだったのですよ。たまには<オカアサン>と言って甘えてあげてよ!AIBOの日記の写真は立上って〔チンチン〕の正面スナップです。秋田市の秋田大学医学部付属病院で昨年9月、がんの疑いのある腫瘍(しゅよう)が見つかった60代女性の腎臓を、30代の息子に移植する生体腎移植を行っていたことが分かった。倫理委員会での審理などは行っていなかったようだ。患者側から言えば、反対審理を嫌った結果の同意だったのでしょうが。

「日本の城:621神戸(かんべ)城」三重県鈴鹿市神戸5丁目
天文年間(1532~55)に、神戸具盛が築いたと伝わる。神戸氏は織田信長の侵攻に愛、三男信孝を養子とする条件で和睦する。関ヶ原合戦後、一柳直盛が封ぜられたが、1636年(寛永13)、伊予西条に転じ、以後天領とされて城は破却されてしまった。1732年(享保17)、本田忠統(ただむね)が入封、陣屋住まいをしていたが、1746年(延享3)に築城許可を得て、2年後に完成させた。現在、城址の本丸部分は神戸公園となり、天守台が残る。又、太鼓櫓が市内の蓮花寺鐘楼として、大手門は四日市市の顕正寺の山門として移されている。

「日本の城:622亀山城」三重県亀山市本丸町
亀山は、北伊勢の中心であり、交通の要衝なので、関氏が城(亀山古城)を築いていた。1590年(天正18)、岡本重政が築きなおして居城とした。それが亀山城である。重政は関ヶ原合戦では西軍に属して戦い滅亡、以後城主は目まぐるしく替わった。1744年(延享1)石川総慶(ふさよし)が入封、以後石川氏代々の居城として明治まで続く。遺構としては、堀と石垣、天守台に建てられた多聞櫓が残る。櫓は県下に唯一現存する城郭建造物。市内の遍照じに二の丸御殿玄関が移築されている。

「日本の城:623名張(なばり)城」三重県名張市丸の内
1585年(天正13)、筒井定次が伊賀上野に入り、家臣の松倉重政が名張に城を築いた。藤堂氏が伊賀に入国したのちの1617年(元和3)、一国一城令により廃城とされている。1636年(寛永13)、藤堂高虎の養子高吉が、名張藤堂家を起こした。そして、旧名張城跡に、陣屋を築いて居住する。城址は現在、名張小学校・名張中学校の敷地だが、陣屋の建物の一部が残る。又、太鼓門が寿栄(ひさか)神社に移されている。


2007-05-27 11:30  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

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