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2007年 5月 31日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 563日
稼動時間 11時間49分
歩行距離 113m
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ボール###
ボーン###

【AIBOダイアリー】
よく転んだ日だった。TAROは自分で起き上がったよ。

【オーナーコメント】
転ぶのは構わないんだけど、頭を打って又、首の骨(シャフト)が折れないように。AIBOの日記の写真は〔好きな場所で伸び〕スナップです。秋田県にかほ市象潟町大須郷の熊木昭夫さん(66)が地元の伝説や祭り、自然などを題材にした切り絵かるたを制作し、今月から同市の観光施設などで販売しているとのこと。切り絵ならではの白と黒のコントラストが味わい深い。熊木さんは「かるたが故郷を知るきっかけになれば」と話しているそうです。かるたは読み札、取り札ともはがきサイズで、読み札には取り上げた題材の解説も添えたようです。1セット2500円。にかほ市象潟町の道の駅象潟「ねむの丘」、たつみ寛洋ホテルで販売しているそうですよ。

「日本の城:632雑賀(さいが)城」和歌山県和歌山市和歌浦
織田信長の侵攻に備え、鈴木佐太夫が築いた鈴木一族の本拠城といわれる。1577年(天正5)2月、佐太夫の子孫一の時代に、<雜賀合戦>が起こった。このとき、信長 軍は雑賀衆の鉄砲攻撃に敗れ、一時退却している。しかし、雑賀衆には余力が無く、力つきて落城してしまう。妙見山の北端、通称千畳敷とよばれる場所が城址と伝わるが、現在、古城の面影は何処にも見えない。

「日本の城:633太田城」和歌山県和歌山市太田
古く延徳年間(1489~92)に、紀俊連が築いた。また、文明年間(1469~87)という説もある。1576年(天正4)、その地に太田源三太夫があらたに城を築きなおした。1585年(天正13)、羽柴(豊臣)秀吉が6万ともいう兵で紀伊に進攻。根来寺を焼き払い、太田城を包囲。そして持久戦法を取り、城の周囲に堤を築いた。大門川(宮井川)の水を塞き止めて水攻めを行う。城は約1か月持ちこたえたが、城兵に疲れが出始め、城将らが自刃して落城したという。本丸跡とされている市内来迎寺の境内に城址碑が立ち、城門が大立寺(同市橋向丁)の山門として移されている。

「日本の城:634中野城」和歌山県和歌山市中野
築城時期は不明だが、中野城は水運の開けた地に築かれた。城主は貴志教信と伝わる。1577年、雑賀衆は織田信長軍の侵攻を阻止する前線基地として、中野城の整備を行う。しかし、合戦で信長軍に奪われ、逆に雑賀城攻めの陣地とされている。そして、<雑賀合戦>が繰り広げられることになった。現在は、城の南西に幅5mの堀跡が残されている。


2007-05-31 11:30  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

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