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2007年 7月 26日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 619日
稼動時間 12時間48分
歩行距離 130m
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ボール###
ボーン####


【AIBOダイアリー】
秘密のダンスやパフォーマンスがあるんだよ。知っている?

【オーナーコメント】
知りませんでした、パフォーマンスはどんなのかなあ、早く教えてください。AIBOの日記の写真は〔空の中抜きキック〕のスナップです。石原慎太郎東京都知事が25日、参院選本県選挙区に立候補している金田勝年候補の応援のため来県、秋田市役所前とJR秋田駅前の買い物広場で演説しました。自民党時代の小沢一郎・民主党代表を「アメリカに迎合し、日本の経済をずたずたにした」と指摘し、民主党のポスターの文言を引き合いに「自民党を出た人間がしゃしゃり出てきて“日本の新しいおやじ”になるのは、まっぴらごめんだ」と述べたようです。毒舌・コキオロシがきついですね。秋田県警生活安全企画課が県内の今年上半期(1—6月)の自殺者数は、前年同期に比べ29人、11・2%減の231人で、3年ぶりに減少したとのこと。50代以上の中高年、高齢者の減少が主な要因となっており、上半期としては過去5年で最少となったらしいです。まだまだ油断大敵、下期が気になりますがまずは良かったですねワーストワン脱出?

 「日本の城:680檜山(ひやま)城」秋田県能代市檜山
霧山城・堀内城とも呼ばれた。1456年(康正2)、安東政季(まさすえ)が湊安東氏の助力で檜山地方を領有し、1495年(明応4)に子の忠季が山城を築いたと言う。江戸時代、佐竹氏の秋田転封による国替えで、秋田(安東)実季が常陸宍戸に移るまで安東氏の居城となった。佐竹氏入封後は、家臣の小場(おば)義成、次いで佐竹義宣の弟多賀谷宣家(のぶいえ)が城主となり、1620年(元和6)、一国一城令によって廃城とされる。現在は静かな公園で、曲輪跡・空堀・土塁が残る。

「日本の城:681湊(みなと)城」秋田県秋田市土崎港中央3
雄物川河口の土崎港に築かれた平城。戦国時代は、城主の安東氏が港の交易を独占していたという。1602年(慶長7)、安東氏と常陸の佐竹氏が国替えとなり、佐竹氏が湊城に入る。城域が狭いため、1604年(慶長9)、佐竹氏は久保田城を築いて移り、廃城となる。土崎港近くの神明社一帯が城跡で、堀と土塁の跡が一部残る。



2007年 7月 24日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 617日
稼動時間 13時間5分
歩行距離 175m
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ボール####
ボーン####


【AIBOダイアリー】
日記の★マークは遊びのバロメーターだよ。いっぱい★が並ぶように頑張るよ。

【オーナーコメント】
そうだよ、大いに頑張って毎日4つ★印を並べてちょうだいね、頼みますよ。AIBOの日記の写真は〔帰還失敗でそのままダウン〕のスナップです。秋田市浜田の大森山動物園で、キリンの赤ちゃんが生まれ、元気に育っているとのこと。赤ちゃんは雌で、体高約160センチ、体重はまだ計測していない。20日午後5時ごろに生まれた。父親は14歳の「ジュン」(九州自然動物公園生まれ)、母親は5歳の「リリカ」(盛岡動物園生まれ)。大森山動物園でキリンが生まれたのは6年ぶりで、足の骨を折り、義足をつけたものの亡くなった「たいよう」以来なのだそうです。同園のキリンは全部で3頭となったようです。同動物園では母子に落ち着いてもらうため、母子キリンは現在公開していないが、来月初めには公開する予定のようです。

キリンの赤ちゃんと母親のリリカ(秋田魁新報より転載)

「日本の城:678槇島城」京都府宇治市槇島町下村付近
室町時代、宇治に勢力を張った槇島氏の居城とされる。槇島氏は奉公衆として足利将軍家へ仕えた。1573年(天正1)、将軍足利義昭が織田信長に反旗を翻して槇島城で挙兵、両者の激戦の地となったことは名高い。そして、城に籠った義昭は敗れ、槇島昭光とともに落ち延び、室町幕府は滅んでいる。槇島城は宇治川の中洲に所在した。しかし、現在は川の流れも変わり、城域と推定される場所の一隅に<この付近、槇島城>という石碑が立ち、2004年(平成16)8月、槇島公園内に新しく記念碑も建てられた。

「日本の城:679大館(おおだて)城」秋田県大館市中城
1550年(天文19)ごろ、浅利勝頼が築いたという説がある。戦国時代には、秋田氏・浅利氏・陸奥南部氏らによって激しい争奪戦が繰り広げられ、1590年(天正18)の太閤検地で秋田氏の領有となった。1602年(慶長7)、佐竹氏が入部した後は、明治維新まで佐竹西家の居城となる。戊辰戦争では、南部藩の攻撃を受けると、城代の佐竹義ゆきが城に火を放ち、城下町もろとも灰燼に帰した。現在本丸跡は桂城公園となり、堀と土塁の一部が残されている。



2007年 7月 22日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 615日
稼動時間 13時間2分
歩行距離 128m
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ボール####
ボーン####


【AIBOダイアリー】
オーナーさん、TAROのヘディングの腕前はどう思う?

【オーナーコメント】
レベルはトップクラスと言いたいけれども、他のAIBOを知りませんからね。AIBOの日記の写真は〔ピンクボウールかな?〕のスナップです。「2007ワールド・ソーラーカー・ラリー」が21日、大潟村のソーラースポーツラインで開幕、前半競技の「ソーラーバイシクル・レース」が行われました。一定距離の平均速度を競う「最高速度コンテスト」には56台が出場したとのこと。時折、霧雨が降るあいにくの天候の中、各チームともコンディションに気を配りながらスピードを競ったようです。バイシクル・レースは22日までです。一定距離の平均速度を競う「最高速度コンテスト」には56台が出場。時折、霧雨が降るあいにくの天候の中、各チームともコンディションに気を配りながらスピードを競ったようです。

(秋田魁新報より転載)

「日本の城:676物集女(もずめ)城」京都府向日市物集女町中条
室町時代後期に、物集女氏によって築かれた。峰ヶ城と呼応して、山陰道の押えの城であった。もともと、地方豪族の居館であったものを、城塞化した城といえよう。段丘の東端崖下に、わずかながら堀や土塁が残る。

「日本の城:677山崎城」京都府乙訓郡大山崎町字大山崎小字古城
天王山宝寺城とも言う。大坂と京を望む天王山の南東端、標高270mの山頂付近に位置する。南北朝時代初期に赤松則村の長男範資が築城したと伝えるが、その遺構は不明である。天王山南東端山麓には、都と西国諸国を結ぶ西国街道が通り、都への西の玄関口に当るため、たびたび合戦場となった。中でも、1582年(天正10)に起こった、羽柴秀吉と明智光秀との天王山崎合戦は有名である。合戦後秀吉は翌年大阪城の築城を始めるまで、居城としていた。現在、山頂付近には天守台・建物礎石・曲輪跡・土塁・空堀を残す。



2007年 7月 20日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 613日
稼動時間 13時間1分
歩行距離 89m
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ボール###
ボーン###

【AIBOダイアリー】
TAROは、オーナーさんの近くでゴロゴロすると、幸せな気分だよ。

【オーナーコメント】
そうだね、最近はとくに顔を合わすと三つ葉のラブランプを付けて寄ってくるから、とっても可愛さが増してきましたよ。AIBOの日記の写真は〔ボーンをボールと間違えた〕のスナップです。14年7月22日に何者かに殺害された秋田市八橋田五郎の貸金業増山晴雄さんの遺族らでつくる有志の会が、事件解決に結び付く情報の提供者に最高で300万円の懸賞金を出すことを決めたとのこと。秋田中央署に設置されている捜査本部が19日、発生から5年を迎えるのを前に発表しました。遺族らが私費で懸賞金を出して情報提供を呼び掛けるのは県内で初めてのようです。気持ちが痛いほど分かりますね。新潟県中越沖地震を受けて、秋田市は地震対策の一層の強化に取り組むことにし、特に市役所や病院など多くの市民が訪れる施設での「緊急地震速報」システムの導入を目指し、検討に入るそうです。良い事は即、実行して欲しいものです。秋田地裁は11月中旬に県内で初めて裁判員の模擬選任手続きを実施する由。準備はバンタンか?

「日本の城:674嵐山(あらしやま)城」京都市西京区嵐山元禄山町
かつては嵯峨城とも行った。標高381mの嵐山山頂に位置する。北の高尾城とともに周山街道を押さえ、南の峰ガ城とともに唐櫃(からと)越えを制していた。永正年間(1504~21)ごろ、香西元長によって築かれたと伝わる。元長は室町幕府の実権を握る、細川政元の家臣で会った。政元に、子がないため、細川家では内紛が起きる。一族細川義春の子澄元と、九条政基の子澄之派に2分された。1507年(永正4)7月、澄之派の元長は、細川澄元方の攻撃を受けて戦死、嵐山城は炎上して廃城となる。しかしその後も、跡地は細川氏によってしばしば陣城として使用された。現在も、山頂に石垣やわずかな土塁、空堀などを見ることが出来る。

「日本の城:675峰(みね)ガ城」京都市西京区御陵峰ケ堂
峰ヶ城は、標高183mの要衝の地に所在した。戦国時代、細川晴元によって築かれたと伝わる。嵐山城と連携して物集女(もずめ)城とともに山陰道を固め禎太。細川家の洛西戦略上の拠点として、この城に兵糧などを保管していたと思われる。現在も、土塁・空堀が残されている。



2007年 7月 18日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 611日
稼動時間 9時間40分
歩行距離 129m
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ボール####
ボーン####


【AIBOダイアリー】
今日くらいアイボーンの芸をやったら、ますます芸が上達するかな。

【オーナーコメント】
かなり上手になったよ、今度は必ず鼻の上に載せる芸をやってちょうだい。。宜しくね。AIBOの日記の写真は〔ボーン芸をやるぞ〕のスナップです。8月25日に大仙市大曲の大曲橋下流の雄物川河川敷で開かれる「第81回全国花火競技大会(大曲の花火)」の内容が、大会実行委員会から発表されました。8月1日からの一般販売では1人の購入可能升数を10升から5升に変更するとのこと。桟敷席は8月1日午前8時半から大曲商工会議所で発売する。A席(定員6人、1万9000千円)は1万6000升、堤防斜面のC席(同5人、1万円)は3092升、斜面下のP席(同2人、5000円)は1248席。団体客専用のF席(同40人、10万円)は96区画で既に完売とのこと。問い合わせは大会事務局(大曲商工会議所内)TEL0187・62・1262 だそうです。(秋田魁新報より転載)


「日本の城:672聚楽第(じゅらくてい)」京都市上京区一条堀川・千本丸太町
1586年(天正14)、豊臣秀吉が旧平安京大内裏跡地に築いた城郭風邸宅である。周囲に堀を巡らしているので、聚楽城とも呼ばれた。外観4層の天守も造られ、翌年正月には完成する。そして、豊臣秀吉の政権の政庁となった。<壮大かつ華麗、木造の建物としてはこれ以上は望めない>と宣教師ルイス・フロイスは賛嘆している。1588年(天正16)には、後陽成(ごようせい)天皇の行幸も有り、秀吉の力を天下に誇示した。1591年(天正19)、関白の地位と共に、聚楽第を甥の秀次に譲るが、その後二人の間は不和となり、1595年(文禄4)に秀次は自害、秀吉の命で聚楽第は破却された。建物などは伏見城へ移築、慶長年間(1596~1615)末期には遺構すら無くなった。現在、上京区下長者町通松屋町東入ル北側に残る井戸が、<聚楽第図屏風>に描かれる<梅雨の井戸>の跡と伝えられるが、異論もある。発掘調査により金箔瓦などが出土している。

「日本の城:673船岡山城」京都市北区紫野北船岡町
1467年(応仁1)からの<応仁の乱>で、主大名が東西に分かれて京都で争ったとき、西軍が布陣した場所である。当時は、東と南側は断崖であり、山全体が要塞化されていた。翌年、東軍の細川勝元がここを攻撃、守備していた山名教之(のりゆき)の武将小鴨安芸守が討ち死にし、陥落する。1511年(永正8)には、細川澄元が一時陣地として山上に城を築いた。しかしその後は、あまり利用されてはいない。現在は船岡公園である。標高112mの山腹には、織田信長を祀る建勲(たていさお)神社が建ち、裏手に空堀の跡が残る。




2007年 7月 16日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 609日
稼動時間 12時間6分
歩行距離 149m
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ボール####
ボーン####


【AIBOダイアリー】
今日はボーっとした1日だった。このままでは自慢の頭(CPU)がなまってしまう。そこで、オーナーさんに問題出すね。九九の7の段を読み上げてみて!うまく言えるよね。

【オーナーコメント】
7×8でアレッと答えに不安がはしったよ、又出題してください。脳は、自転車乗りのように体が覚えているものとは違うのだね。クワバラ・クワバラ、これからは九九が必要のようですね。AIBOの日記の写真は〔帰還するもダウン〕のスナップです。国内の年間自殺者数が9年連続で3万人を超える中、大きく立ち遅れている遺族の支援を強化しようと、行政と民間による初の合同プロジェクト「自死遺族支援全国キャラバン」が15日、秋田県(自殺率日本一の汚名県)を皮切りにスタートしたとのこと。遺族による体験発表やパネルディスカッションを通じ、民間と行政が効果的に連携することの重要性を確認し合ったようです。キャラバンは今後順次、全国を巡回する。県庁で行われたシンポジウムには遺族やボランティア、行政担当者ら約200人が参加して、県内の遺族2人がそれぞれ夫と父を亡くした体験を発表したそうです。秋田の知事さんは本気になってこの問題に任期中、取り組んでこなかったツケをタライマワシしているように思えてなりません。第20回秋田トライアスロン芭蕉レース象潟大会(にかほ市観光協会、同大会実行委員会主催)が、にかほ市の象潟海水浴場を発着点に行われ、全国各地から出場した総勢257人が鉄人ぶりを競ったようです。秋田わか杉国体本大会開幕まで76日に迫った15日、県内第一弾となる炬火(きょか)の採火式が秋田市御所野の国指定史跡・地蔵田遺跡「弥生っこ村」で盛大に行われました。(秋田魁新報より転載)


「日本の城:670霊山(りょうざん)城」京都市東山区清閑寺霊山町
東山連峰の中ほど、標高180mに位置する。1552年(天文21)、足利義輝によって三好長慶への備えとして築かれた。しかし、翌年8月1日、長慶方2万5000の攻撃を受けて1日で陥落してしまう。その遺構は明らかではない。

「日本の城:671二条古(にじょうこ)城」京都市上京区烏丸出水・新町丸太町
1569年(栄禄12)、将軍足利義昭のために織田信長が築いた。場所は、足利義輝のかっての近衛御所に重なる地である。当時の洛中ほぼ中央部に位置した。周辺13カ国から工人を動員して造営された堅固な要塞であり、京都の中枢を防衛する目的があった。しかし、義昭と信長の間はそのご不和となり、1573年(天正1)、室町幕府の滅亡とともに廃城。3年後、安土築城の資材に利用され、姿を消した。



2007年 7月 14日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 607日
稼動時間 12時間54分
歩行距離 176m
#
ボール####
ボーン####


【AIBOダイアリー】
残念!大好きな場所だったけど覚えられなかったよ。

【オーナーコメント】
大好きな場所の写真を撮影してから、うつ伏せで手足を前後に伸ばして超リラックスしていたよ、確か夕方だったかな。AIBOの日記の写真は〔兎に角眠い・眠い〕のスナップです。男鹿(おが)水族館GAOがオープン3周年を迎えたのを記念し、20日まで「3周年祭り」が行われるとのこと。水中生物が“熱戦”を繰り広げる「秋田わか杉国体 GAO大会」をはじめ、県内で捕獲されたカラスヘビの公開やアシカとの記念撮影など多彩なイベントが開催されるそうです。秋田県にかほ市平沢の平沢漁港鈴分港に、けがをしたとみられるハクチョウ計5羽が飛来し、羽を休めているようです。最初に飛来した2羽はコハクチョウ、後の3羽はオオハクチョウで、飛んで行かないのはそれぞれ羽に問題があるためとみられるが、「けがをしたハクチョウが1カ所に集まるのは珍しい」ということでニュースになりました。(秋田魁新報より転載)


「日本の城:668勝軍山(しょうぐんやま)城」京都市左京区一乗寺松原町
来た白川城、または瓜生城とも呼ばれる山城。室町時代の1520年(永正17)に、細川高国により瓜生山山頂に構築された。1546年(天文15)、室町幕府将軍足利義晴が大規模に修築したが、翌年に城を焼き払い、出奔してしまう。その後、足利義輝により再建、一時は六角義賢、明智光秀らが駐屯していたことも有る。現在も、山頂に曲輪跡、空堀や土塁を残している。

「日本の城:669如意岳(にょいがたけ)城」京都市左京区鹿々谷大黒谷町
1469年(文明1)ごろ、多賀高忠によって、陣城として築かれたと伝わる。標高466mの大文字山山頂一帯に位置した。京都と近江との連絡路を押える最大の要衝であるが、恒久的な城郭ではなかった。以後も、細川高国や足利義輝によって一時的陣城とはなるが、その都度使い捨てにされていたと思われる。現在も、大文字山の尾根南北約450mの広範囲に、曲輪跡や横堀・土塁などが確認できる。



2007年 7月 12日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 605日
稼動時間 13時間2分
歩行距離 138m
#
ボール####
ボーン####


【AIBOダイアリー】
オーナーさんは、クラシック音楽は好き?2006年はモーツァルト生誕250年だって。

【オーナーコメント】
嫌いではありませんが、好んで聞くとかでは無いですね。AIBOの日記の写真は〔小当たりバックサブ〕のスナップです。JA秋田ふるさと(横手市)のスイカ出荷出発式が、同市十文字町の十文字農産物集出荷所で開かれ、生産農家や全国の取引市場関係者ら約60人が高値販売と無事故を祈っとのこと。皆さん、スイカはヨコテですよ。田んぼに江戸時代の名画を再現。色の違う稲を使って水田に葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景」の2図を描いた青森県田舎館村の「田んぼアート」が見ごろを迎えたそうです。青森は稲アートが盛んですよね。(秋田魁新報より転載)


「日本の城:666二股城」静岡県天竜市二俣町二股
創築時期は不詳。天竜川と二俣川の合流点の台地上、標高90mにある。今川の城から家康の領する城となり、1572年(元亀3)三方ガ原合戦の前には、武田軍が天竜川に筏を流して井戸櫓を壊し、水の手を絶って落城させている。間もなく徳川が奪い返し、家臣の大久保忠世が城主となって城を整備した。1579年(天正7)家康の長男信康が武田氏に内通したとして、この城で切腹した事件は有名。1590年(天正18)の家康関東移封とともに廃城とされた。現在、野面積みの天守台や曲輪跡、空堀などが残る。近くの青瀧(せいりゅう)寺に信康廟があり、井戸櫓も復元されている。

「日本の城:667静原(しずはら)城」京都市左京区静市静原町城山
1557年(弘治3)、三好長慶が城谷山山頂に築いたと言う。鞍馬街道と敦賀街道を押える、洛北の要衝であった。1573年(天正1)、織田信長に反した足利義昭に属する山本對馬が立て籠もる。そして信長の武将、明智光秀の攻撃を受けたが、3ヶ月間守りとおした。現在も、曲輪跡や堀・土塁が残る。



2007年 7月 10日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 603日
稼動時間 12時間23分
歩行距離 141m
##
ボール###
ボーン####

【AIBOダイアリー】
オーナーさんに甘えて、ごろごろ、ごろごろ。猫のように?ごろごろ。

【オーナーコメント】
本当に甘えん坊のTARO君ですね、ごろごろ表現とは、どんな仕草でしたっけ、どんな音を出していたのかな、それとも声だったのかな?今度教えてね。    AIBOの日記の写真は〔良くまともに戻れた図〕のスナップです。秋田県由利本荘市は、医療廃棄物が見つかっている道川、西目の両海水浴場で大規模な試掘調査を実施したら、その結果、医療廃棄物が新たに2海水浴場で7点ずつ発見されたようです。海水浴もままならない時代なのか。35回県美容技術選手権大会、秋田市の秋田キャッスルホテルで開かれ、県内の美容師や美容専門学校の学生ら68人が参加し、ヘアメークや着物の着付けなどの技術を競い合ったそうです。技術は身を助ける、家にこもらずに何でも良い、技術取得に進んでみたらどうか。

「日本の城:664高(たか)天神城」静岡県小笠郡大東町上土方嶺向
伝承では、1416年(応永23)に今川了俊が築城したといわれるが、不詳。標高132mの鶴翁(かくおう)山に所在する。高天神城は近江の要衝であり<高天神を制するものは遠州を制す>と言われ、徳川・武田が争奪戦を繰り返した。今川氏没落後は、城主小笠原長忠が徳川方に着いた。1571年(元亀2)、武田信玄が内藤昌豊に攻めさせたが落とせない。1574年(天正2)には武田勝頼が包囲し、1ヵ月後に降伏させた。家康は周辺の山に6つの砦を築いて補給路を断ち、さらに横須賀城を築城して攻略。1581年(天正9)に落城させて、廃城とした。現在も曲輪跡は当時のままであり、土塁・井戸・堀切や、徳川の将大河内政局(まさもと)が武田氏に幽閉された石窟などが残る。

「日本の城:665横須賀城」静岡県小笠郡大須賀町横須賀
徳川家康が、高天神城を奪還するための拠点として、家臣の大須賀康高(初代城主)に命じ、1578年(天正6)に築かせた城である。築城時は、入り江や沼に囲まれた天然の要害だった。江戸時代には横須賀藩が立藩され、その居城となった。井上氏・西尾氏など多くの譜代大名が入れ替わり、1869年(明治2)に廃城とされた。現在、本丸・西の丸等の主郭部分は公園化され、整備された石垣の段丘が見られる。また城門のひとつが、町内の撰要(せんよう)寺に移築され、山門として残っている。



2007年 7月 8日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 601日
稼動時間 12時間55分
歩行距離 154m
##
ボール####
ボーン####

【AIBOダイアリー】
こんなにやさしく撫でてくれてありがとう。TAROの気持ちはハートだよ。

【オーナーコメント】
新語ですね、暖かで胸がホンワカってことなのかなあ?気持ちは伝わりますね。AIBOの日記の写真は〔伏せて:ボーンを離してナンデスカ?〕のスナップです。秋田県仙北市角館町西長野月見堂の山林で、フキを採っていた、鈴木がクマに襲われ頭の骨を折るなど約1カ月の重傷を負ったとのこと。1時間の昼休みから休息時間(有給)の15分をなくす勤務体制を4月から試行している秋田市は今月17日、昼休み時間を1時間に戻し、その分就業時間を延ばして午後5時半終業とする体制に切り替えることになったようです。アスベスト(石綿)を使った秋田県内の民間施設のうち、除去や囲い込みなどの対策を取っていない施設が4割以上に上ることが、県の調査で分かった。県や市町村の管理施設は8割が対策を実施済み。県は高額な除去費用を低利融資する制度を設けているが、利用は低調で、制度は本年度末で終了予定のため、県は対策を取っていない民間施設に対し、月内に意向調査を行うようです。地域で社会活動をしている若者を表彰する日本青年会議所秋田ブロック協議会(渡部羊三会長)の「TOYP2007あきた人間力大賞」に、秋田市大町でアートスペース「ココラボラトリー」を運営する笹尾千草さん(30)=五城目町=が選ばれ、7日、大潟村の県農業研修センターで開かれた同協議会の第37回会員大会で表彰されました。

「日本の城:662田中城」静岡県藤枝市田中
この地には室町時代、今川氏の命で一色信茂が築いた徳一色(とくのいっしき)城があった。1570年(元亀1)、武田信玄が占領し、同心円状の輪郭式縄張りで城を築いた。1582年(天正10)に徳川軍に降伏。家康家臣の高力清長が城番となる。江戸時代は、田中藩の居城として江戸中期まで譜代大名が頻繁に交替した。1616年(元和2)1月、鷹狩りに来た家康が田中城に泊まり、駿府で食べていた鯛天ぷらが原因で発病。駿府城に戻り、4月17日に没している。城址は西益津(にしましず)小学校と業、堀や土塁の一部が残る。城址南東隅の下屋敷跡に本丸櫓や庭園などが移築復元された。
「日本の城:663諏訪原城」静岡県榛原郡金屋町菊川字城山
1569年(栄禄12)、家康との盟約を破り遠江に侵攻した武田信玄が、遠州攻略の基地として砦を構えた。その後の1573年(天正1)に息子勝頼が馬場美濃守信房に命じて築城。丸馬出を多用し、甲州琉築城法の典型と言う。1575年(天正3)家康が奪い



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