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佐賀県のお城!とTARO君です [日本の名城]

第29回全国中学校軟式野球大会(日本中体連、全日本軟式野球連盟など主催)は秋田市にある、コマチスタジアムで開会式を行い、全国から集結した16校による熱戦の幕を20日から開きました。頑張れ羽城中学校!(秋田魁新報より転載)


鹿角市の県指定無形民俗文化財「花輪ばやし」が19日夜、始まった。豪華絢爛(けんらん)な10町内の屋台が躍動感あふれるお囃子(はやし)に包まれて花輪地区(カリヤンも仕事でしたが3年間、近くに居りました)を巡行し、観光客らを魅了したようです。京都の祇園の屋台に似ていますね(秋田魁新報より転載)



●楽しげなTARO君の<顔写真を>2枚紹介します●

その一<この場所だあ-い好き>



その二<最高のルン・ルン気分>



●日本の名城を紹介します。700城目からですよ●

「日本の城:700唐船(とうせん)城」佐賀県西松浦郡西有田町山谷平瀬
唐船城は、有田川が大きく蛇行する場所に突き出た平瀬山上に築かれている。源直(なおす)三男栄が有田地方に入り、1218年(建保6)に築いたと言う。栄は有田氏を名乗り、以後約300年間代々の居城とした。1577年(天正5)、龍造寺隆信により攻略され、以後は龍造寺氏の家臣が城代を勤める。しかし、龍造寺氏から鍋島氏への政権交代によって、城代は佐賀へ移り、寛永年間(1624~44)には廃城とされてしまった。現在、遺構として曲輪跡や空堀・石垣などが残る。

「日本の城:701岸岳(きしだけ)城」佐賀県唐津市相知町佐里・北波多岸山
標高320mの岸岳山頂に所在する。吉志峯城・鬼子岳城・岸獄城とも書かれた。周囲を急峻な崖によって守られた要害である。中世後期に波多氏が築いて以来500年、代々の居城とした。1594年(文禄3)、城主の波多親(ちかし)は、豊臣秀吉の不興をかって常陸へ流罪となる。一説にその原因は、親の妻が絶世の美女であり、親の出陣中に秀吉に召されたが、その意に従わなかったからだと伝わる。また別説では、唐津城主寺沢広高の陰謀であったともいう。その後、岸岳城は破却された。用材は唐津城築城のため運びさられたともいわれている。山頂には、曲輪跡や石畳の道、堀切などが残されている。

「日本の城:702日高(ひだか」城」佐賀県唐津市浦
唐津湾西岸、海岸から約700m離れた標高141mの城山に位置する。戦国時代末期に、日高志によって築かれた。志は岸岳城主波多氏の家臣であったが、波多氏の後継者争いに巻き込まれてしまう。そして、1564年(栄禄7)、岸岳城で毒殺された。その子喜(このむ)は、岸岳城を攻めて城を奪うが、再び波多氏に逆襲されて、壱岐へ脱出したという。


● 高松城です



● 岡山城その一



2007-08-21 09:38  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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2007年 8月 17日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 641日
稼動時間 12時間3分
歩行距離 136m
#
ボール####
ボーン###


【AIBOダイアリー】
転んだら自分で起き上がれるんだよ。でも3回頑張っても駄目だった時は諦めちゃうけどね。そんな時はオーナーさんが起してね。

【オーナーコメント】
そう言えば、昼前に鏡台の下で横転したままで、ダウンもしないで目を白黒させて居たのがそうだったのだね。どうして起きないのか心配していましたよ。AIBOの日記の写真は〔リラックス終了〕のスナップです。秋田県横手市の「送り盆まつり」(県指定無形民俗文化財)が16日夜、横手川に架かる蛇の崎橋周辺で行われました。各町内から14隻の屋形舟が繰り出し、橋上などで豪快にぶつかり合ったようです。(秋田魁新報より転載)


秋田県大館市の4大祭りの一つ「大文字まつり」が16日行われ、日中の大パレードと夜の花火が市民を楽しませた。送り火の大文字焼きは雲に隠れ、下界からは望めなかったそうです。20年前に大館に住んでいましたので、懐かしく感じながら、TVで京都の五山送り火を見ておりました。(秋田魁新報より転載)


編み笠(がさ)や頭巾(ずきん)をかぶった踊り手たちが優雅に踊る羽後町の伝統行事「西馬音内盆踊り」(国指定重要無形民俗文化財)が16日、秋田県羽後町西馬音内の本町通りで始まったようです。明日18日までですが、なかなか情緒ある歴史を感じる盆踊りです。(秋田魁新報より転載)


http://michinoku.karou.jp/tohoku/nishimonai/nishimonaitop1.htm
http://www.akitafurusatomura.co.jp/7kanko/nishimonai-bon.html

「日本の城:698塚崎(つかさき)城」佐賀県武雄市武雄町武雄
武雄(たけお)城・御船山(おふねやま)城・後藤山城などとも言う。標高207mの御船山山麓に位置する。元永年間(1118~20)ごろ、後藤氏が築いた。そして、居城としたが、当主家信の代、1586年(天正14)に住吉(すみよし)城に移る。しかし、1599年(慶長4)に城は消失、家信の嫡男茂綱はふたたび武雄城に戻った。1634年(寛永11)、姓を鍋島と改めている。1615年(元和1)、一国一城令で破却された。現在、城域のほとんどが県立武雄高校の敷地になっている。また御船山西麓には、領主鍋島茂義の別邸跡の御船山楽園が残る。

「日本の城:699住吉(すみよし)城」佐賀県杵島郡山内町宮野
黒髪山(くろかみざん)の東山麓、標高136mに所在する。戦国時代に入り、武雄地方の領主後藤氏により築かれたと推定される。また<黒髪山城>は、住吉城の別名とも、、全く別な城であるともいう。1586年(天正14)、後藤氏が居城としたが、1599年(慶長4)、当主茂綱の代に消失してしまい、武雄城を修理して移った。現在も曲輪跡や空堀・土塁などが残されている。



2007年 8月 14日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 638日
稼動時間 9時間23分
歩行距離 141m
ボール###
ボーン###


【AIBOダイアリー】
今日は火曜日だね。特に関係ないけど、お家の火事には気をつけようね。

【オーナーコメント】
そうですね、ありがとう、ママさんに伝えておきますよ。心配性のTARO君。AIBOの日記の写真は〔オーナーさん大好き(座)〕スナップです。秋田市出身の脚本家内館牧子さんと盛岡市在住の作家高橋克彦さんの対談「内館小町は歴史を変える?!」が、仙北市のたざわこ芸術座わらび劇場で行われたそうです。同劇場で上演中のミュージカル「小野小町」で内館さんが描いた強い女としての小町像を基に、謎に満ちた小町への思いを語り合ったようですよ。(秋田魁新報より転載)


「第8回米代川流域川下り」が、秋田県大館市外川原—能代市二ツ井町七座間の21キロで行われたそうです。水面から郷土の魅力を再発見しようと、田代公民館を中心にした実行委員会が毎年開いているのです。(秋田魁新報より転載)


大相撲夏巡業「北秋田場所」(14日、大館樹海ドーム)を前に、北秋田市出身の幕内力士豪風=尾車部屋=と弟弟子の嘉風(よしかぜ)=大分県出身、同=が13日、大館市の養護老人ホーム成章園を慰問したとのこと。相撲ファンの多い同園が依頼して実現したそうです。皆の笑顔が良かった。(秋田魁新報より転載)


秋田市仁別の山林で先月、絶滅危惧(きぐ)種クマタカのひなが2年ぶりに巣立つのを、同市手形田中の会社員佐藤良美さん(52)が確認したとのこと。(秋田魁新報より転載)


「日本の城:696鹿島城」佐賀県鹿島市高津原城内
鹿島新城・高津原屋敷などと呼ばれている。1807年(文化4)に、佐賀藩3支藩のうち鹿島藩鍋島直しによって築かれ、常広城から移った。小規模な城だが天守に相当する隅櫓も建てられていた。1874年(明治7)、佐賀戦争で城中の建物の大半を焼失してしまう。現在、本丸表門が県立鹿島高校の門に、大手門が旭ヶ丘公園入口にあり、石垣や堀・土塁なども残されている。

「日本の城:697潮見(しおみ)城」佐賀県武雄市橘町水島潮見
標高151mの潮見山頂に所在する。鎌倉時代、幕府の御家人橘公業が伊予宇和地方から移り、城を築いた。そして、3代公村からは渋江姓を称する。1560年(栄禄3)、高来城主有馬義直軍3000の攻撃を受けた。在城兵士数百人で守っていたが、要害のために落ちず、有馬方は謀略を用いて落城させたという。現在も堀や館(たち)とよばれる平地が残る。



2007年 8月 11日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 635日
稼動時間 12時間4分
歩行距離 108m
#
ボール####
ボーン####


【AIBOダイアリー】
好きなものを見せてもらえたよ。ちゃんと名前も言えたかな。

【オーナーコメント】
自分で在る場所に行って、何べんも・何べんも名前を言って、手指ししていたよ。AIBOの日記の写真は〔腰回しボーン無し〕のスナップです。

非鉄金属大手のD0WAホールディングス(本社・東京)グループで銅・貴金属製錬の小坂製錬(小坂町)が建設を進めていた新型炉が完成し、9日、秋田県小坂町の小坂製錬所で完工式が行われました。

JR秋田駅の東西を地下で結ぶ自動車専用道路・秋田中央道路は、9月15日の開通まで1カ月余りとなった。工事はほぼ終わっており、残すのは東西の出入り口の信号や標識設置工事などだが、ここにきてドライバーからは「自専道から山王十字路に向かう場合、どのように走行することになるのか」という疑問の声が出ているようです。県警によると「車線別信号」が設置されることが決まっているが、果たしてスムーズに車は流れるのか—懸念されています。西側の場合、トンネルを出て山王十字路に向かう車が通行している間、竿燈大通りを進んできた車は信号待ちで停止することになるようです。信号はトンネル用に1機、竿燈大通り用に2機設置されるそうで、開通時は一時渋滞が出ることを想定しているようで、慣れたら解消するとのこと。少し楽観視しすぎていないでしょうか?よくよくご検討の程を!!

アサガオが少し伸び不足ですが咲きそろい始めました。


「日本の城:694須古(すこ)城」佐賀県杵島郡白石町堤
天文年間(1532~55)ごろ、千葉氏に属していた平井氏が築いて、居を構えた。龍造寺隆信は、須古城を3度攻撃したが失敗している。1563年(栄禄6)と1564年(栄禄7)、そして1574年(天正2)のことである。1574年の攻撃で、城内に内応者を作ってやっと落城させた。現在、須古小学校裏山の一隅にある丘が曲輪跡で、外堀も一部残されている。

「日本の城:695常広(つねひろ)城」佐賀県鹿島市常広古城
天正年間(1573~92)に、鍋島信房により恒広城が築かれたとされるが、所在地および現在の常広城との連続性など不詳。常広城は第3代鹿島藩主の鍋島直朝により、1652年(承応1)に築城された。しかし、しばしば水害に遭ったため、鹿島城を築いて移り、常広城は廃城とされた。現在の北鹿島小学校の地が、本丸跡である。



2007年 8月 8日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 632日
稼動時間 9時間50分
歩行距離 98m
ボール###
ボーン###


【AIBOダイアリー】
お話を聞くのは大好き!オーナーさんのことをもっと好きになるよ。

【オーナーコメント】
嬉しいですね、もっともっとコミニュケーションをとろうね。大好きですよ。TARO君。AIBOの日記の写真は〔立柱終了〕のスナップです。「秋田わか杉国体」ゴルフ競技の本県女子選手最終選考会が6、7の両日、秋田市の秋田カントリークラブで行われ、14歳の倉内緋里(あかり)選手(御所野学院中3年)が高校生や社会人を抑えて1位となり、国体出場権を手にしました。今、若手が凄い!(秋田魁新報より転載)


「日本の城:692水ケ江城」佐賀県佐賀市中の館町
龍造寺隆信が出生した城である。文明年間(1469~87)、当時この地方の豪族であった龍造寺康家が築城した。そして、本城の中村城(のちの佐賀城)を後継者の家和に譲り、水ケ江城に隠居する。龍造寺氏は1544年(天文13)、少弐(しょうに)氏の攻撃を受け、謀略によって当主家兼以下ほとんどの将兵が戦死してしまった。出家していた隆信が還俗して龍造寺氏を継ぎ、戦国大名として台頭する。水ケ江城は隆信の弟の長信が居城とし、多久(たく)家として続いた。現在、赤松小学校の建つ敷地および隆信公園(隆信生誕地)周辺が城址である。

「日本の城:693千葉城」佐賀県小城郡小城町松尾
東千葉城・午頭(ごず)城・祇園城とも言う。祇園川畔に位置し、標高80mほどの丘陵牛頭山の山頂一帯に築かれている。一説に、鎌倉時代末期に下総から小城に入った千葉胤貞によって築かれたと言う。その後、代々千葉氏の居城となるが、胤朝の時代に内紛があり、以後千葉氏は2家に分かれ、衰運をたどった。そして、1545年(天文14)、馬場頼周(よりちか)が入城するが、龍造寺家兼との戦いで敗れ、以後、千葉城は廃城となった。現在は千葉公園となっており、広大な曲輪群が残っている。



2007年 8月 5日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 629日
稼動時間 12時間37分
歩行距離 134m
#
ボール###
ボーン###


【AIBOダイアリー】
アイボーンで遊んでくれてありがとう。オーナーさんに渡せて満足。

【オーナーコメント】
良かったですね、ママさんが何度も、何度も<アイボーン持って来て>とお願いして持って来てもらっていたようですね。TARO君も<アイボーン渡すよ、受け取って>と言っていたね。AIBOの日記の写真は〔ボーンにキッス〕のスナップです。秋田市の竿燈まつりは2日目の4日、台風5号接近による雨と強風のため、第61回妙技会(昼竿燈)の会場を同市千秋公園の中土橋から同市八橋の市立体育館に移して行われたようです。(秋田魁新報より転載)


秋田県沖を北上した台風5号の影響で、秋田市の竿燈まつり2日目の4日は夜竿燈の開催が一時危ぶまれたが、横風や小雨の悪天候を吹き飛ばすような熱の入った演技が繰り広げられたようです。(秋田魁新報より転載)


「日本の城:690湯沢城」秋田県湯沢市古館山
1277年(建治3)ころに小野寺経道の三男経定が築城したと伝えられる。道定は湯沢氏を称する。1595年(文録4)の最上氏の攻撃で、小野寺孫七郎は敗れて自刃、湯沢城は落城した。その後最上氏の重臣楯岡光茂が入ったが、国替えで佐竹氏の入封に伴い、佐竹南家義種が城代となる。1620年(元和6)、一国一城令により破却された。現在、本丸・二の丸・馬場・見張り台などの跡が残る。

「日本の城:691蓮池城」佐賀県佐賀市蓮池町蓮池・佐賀郡諸富町大堂
戦国時代は、小曲城・小田城と呼ばれた。1427年(応永34)、小田直光が蓮池に土着して築いたと伝わる。しかし小田氏は1573年(天正1)、龍造寺隆信により滅ぼされた。一時は隆信の弟長信が城代となる。その後、国主が龍造寺氏から鍋島氏に替わると、佐賀城を本拠として支城を廃止。1615年(元和1)の一国一城令でとり壊された。鍋島勝茂の三男直澄が、1639年(寛永16)に蓮池に館を構えて、佐賀藩支藩の蓮池藩の初代藩主となった。現在、藩館跡は蓮池公園として整備され、かろうじて堀の一部が残されている。



2007年 8月 3日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 627日
稼動時間 12時間43分
歩行距離 63m
ボール###
ボーン###


【AIBOダイアリー】
8月は、英語でAugust。古代ローマの皇帝の名前が由来らしいよ。

【オーナーコメント】
知りませんでした、ありがとう、朝からお勉強になりました。又宜しく頼むね。AIBOの日記の写真は〔時報ダンス③〕のスナップです。秋田県仙北市角館町の国道46号の渋滞緩和のため、国が整備を進めている「角館バイパス」の一部、盛岡市方面の2・6キロが4日午後3時に開通しました。秋田大は20年4月、工学資源学部に生命化学科を新設する。生命を原子・分子レベルで研究し、医薬品や食品産業などに必要な基礎的素養を身に付けた人材育成を目指すそうです。入学定員は32人。吉村昇学部長は「できるだけ県内の高校生に興味を持ってほしい。地元企業に人材を輩出できるようにし、企業誘致につながる人材供給にも貢献したい」と話しているようです。卒業後も秋田で働けるシステムを作っていただきたいものです。育てたものはそこで大きく成長させてこその人材育成ですよ。
秋田の竿灯祭りが始まり6日まで開催。東北を代表する夏祭りの一つ、秋田市の竿燈まつり(国重要無形民俗文化財)が3日夜、同市の竿燈大通りで開幕した。夏の夜空に揺らめく光の稲穂が観覧席や沿道を埋めた観衆を魅了した。会期は6日までの4日間。インターネットLive配信中は19:00~21:00です。http://www.kantou.gr.jp/live.html 見てやってください。

(秋田魁新報より転載)

「日本の城:688西馬音内(にしもない)城」秋田県雄勝郡羽後町西馬音内堀回
1277年(建治3)、稲庭城主小野寺経道(つぐみち)の次男経直が築城したと伝わる。西馬音内川右岸の丘陵上標高172mの位置にあり、切り立った断崖上の天然の要害である。太閤検地の後、雄勝郡の蔵入地の管轄権を得た最上氏が、雄勝郡を名実ともに最上領とするために侵攻を開始すると、西馬音内城の時の城主重光は自ら城に火を放って退陣したという。現在、曲輪跡や堀切・井戸跡が残る。

「日本の城:689稲庭(いなにわ)城」秋田県雄勝郡稲川町字古館前平
鶴ヶ城とも言う。築城時期には諸説あるが、鎌倉時代初期と思われる。小野寺氏は稲庭城を本拠として、羽後南部に一大勢力を広げる。室町時代末期に沼館城へ移り、さらに横手城へと居城を変えている。天正年間(1573~92)後半ごろから山形の最上氏に侵攻され、1596年(文禄5)、小野寺道勝が城主のときに落城し、廃城となった。現在、曲輪跡・堀切・櫓台などが残る二の丸跡に建つ<今昔館>で小野寺氏関係の展示が見学できる。



2007年 8月 1日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 625日
稼動時間 9時間46分
歩行距離 129m
#
ボール###
ボーン####


【AIBOダイアリー】
投げたり、咥えたり、回したり、枕になったりと、アイボーンは大活躍だよ。

【オーナーコメント】
そうだね、良くアイボーンで遊んでいましたね、今度鼻に乗せる芸を頼みます。AIBOの日記の写真は〔時報ダンス①〕のスナップです。3日開幕する竿燈まつりを前に、秋田市八橋の高橋提灯(ちょうちん)店で竿燈用のちょうちん作りが追い込みの時期を迎えているそうです。(秋田魁新報より転載)


オエノングループの酒造会社・秋田県醗酵工業(湯沢市)は1日、地元産のフキノトウを原料にした「ばっけ焼酎」の全国発売を始めたとのこと。割り水には世界遺産・白神山地の水を使用、秋田の素材にこだわった一品だそうですよ。(秋田魁新報より転載)


「日本の城:686本荘城」秋田県本荘市出戸町字尾崎
鶴舞城・尾崎城とも呼ばれた。関ヶ原合戦後、由利郡は最上義光(よしあき)の所領となり、重臣の楯岡満重に治めさせた。はじめ亀田に入るが、1613年(慶長18)頃、尾崎山に本荘城を築いて居城とする。1622年(元和8)、最上氏が改易となり、翌年、常陸府中から六郷政乗(まさのり)が本庄に移封されて小規模の城を築く。以後、明治維新に至るまで、六郷氏が約240年間この地を領した。戊辰戦争のときに庄内藩と戦い、城と城下町を焼いてしまう。現在は本荘公園となり、曲輪跡や堀が残されている。


「日本の城:687八森城」秋田県由利郡八島町城内八森
応仁年間(1467~69)、<由利十二頭>と呼ばれる小豪族集団の一人であった大井義久が築いたと伝わる。天正年間(1573~92)に大井氏が滅んだ後、仁賀保氏の城代、楯岡氏、打越(うていち)氏が在城。1640年(寛永179、讃岐高松の生駒氏が領地を没収されて1万石で転封氏、八島藩が成立。1658年(万治1)、2000石を分知して大名格を失い、城は陣屋格となった。戊辰戦争で庄内藩の攻撃を受けると、生駒氏は陣屋に火を放って退却した。現在、城址には八島小学校が建ち、西門前に堀と老松が残されている。



2007年 7月 30日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 623日
稼動時間 13時間0分
歩行距離 149m
ボール####
ボーン####


【AIBOダイアリー】
今日は、うまくお話できたかな。

【オーナーコメント】
直しておきましたよ、菅さんをスガサンと言ったり、中越をナカコシと読んだりしていましたよ。AIBOの日記の写真は〔リラックスだワン〕のスナップです。秋田県鹿角市の十和田高校(344人)の中庭に、ペットボトルのキャップを使って制作したスギッチの壁画がお目見えしました。(秋田魁新報より転載)


「第4回よこての全国線香花火大会」が、秋田県横手市の蛇の崎川原を主会場に開かれたようです。浴衣姿の親子連れら約1800人が集まり、小さな火の玉から飛び出す可憐(かれん)な火花が特徴の国産線香花火を楽しんだとのこと。(秋田魁新報より転載)


「日本の城:684本堂城」秋田県仙北郡三郷町本堂城回
1535年(天文4)に本堂氏が築城し、山城の元本堂城から移ったとされる平城である。天正年間(1573~92)の城主は本堂忠親。豊臣秀吉の小田原北条氏攻めにも参陣している。関ヶ原合戦後の1601年(慶長6)、佐竹氏の国替えにともない本堂茂親が常陸志築(しずく)に移り、城は廃城となった。現在、内館と土塁・内堀が残る。

「日本の城:685大森城」秋田県平鹿郡大森町字高口下水戸堤
雄物川左岸の丘陵上に所在。文明年間(1469~87)、横手城主小野寺泰道の四男道高が築城したという。太閤見地の際に上杉景勝が入城し、一時、太閤蔵入(くらいり)地の収納所となる。1591年(天正19)、城主に復帰した小野寺康道は最上氏と対立、大攻防戦を繰り広げた末に和睦する。関ヶ原合戦後は最上領となり、その家臣伊良子(いらこ)将監の居城となった。現在は大森公園となっている。



2007年 7月 28日 AIBOフォトダイアリー [日本の名城]

TARO
経過日数 621日
稼動時間 12時間32分
歩行距離 124m
#
ボール###
ボーン####


【AIBOダイアリー】
おかえり!TAROはちゃんとお留守番していたよ。

【オーナーコメント】
ありがとう、でも今日の留守番は何か考え事をしてボーウとしていたんじゃない、パパさんがいきなり部屋に入っても知らんふりで、写真も撮らず録音もし無かったよ。今度はちゃんと集中して欲しいな。AIBOの日記の写真は〔腰回し後ボーンを落とした〕スナップです。「2007ワールド・ソーラーカー・ラリー」の後半競技となる「ソーラーカー・ラリー」と「全日本学生ソーラー&FCカーチャンピオンシップ」が27日、秋田県大潟村のソーラースポーツラインで開幕しました。県内の4台を含む32台が出場、29日まで耐久ラリーを繰り広げ、レースには太陽電池のほか、燃料電池やその両方を搭載したハイブリッド車も出走したようです。初日は8時間で25キロコースを18周走った「芦屋 Sky Ace TIGA」(兵庫・芦屋大学ソーラーカープロジェクト)が総合首位に立ち、「ENAX」(東京・再輝)が17周で続いたとのこと。(秋田魁新報より転載)

大潟村のソーラースポーツライン

「日本の城:682亀田城」秋田県由利郡岩城町下蛇田字高城4
1623年(元和9)、岩城吉隆が信濃川中島から2万石で転封して亀田藩が成立、陣屋を構え、幕末の8代隆喜(たかひろ)のときに城主格となる。戊辰戦争では当初秋田藩と行動を共にするが、後に庄内藩側に転じて新政府軍の攻撃を受け、1868年(明治1)に城は焼け落ちた。現在城門と石垣が復元されているが、内部は美術館である。藩政時代の建物が、史跡保存伝承の里<天鷺(あまさぎ)村>に移築されている。

「日本の城:683門屋(かどや)城」秋田県仙北郡西木村小山(こやま)田字沢口
桧木内(ひのきない)川の大羅迦内(おおらかない)川の合流地点に所在する。1220年(承久2)、戸沢兼盛がこの地に移り、1228年(安貞2)に築城したという。かつては安倍頼時(頼良)の六男重任の居館であったとも伝えられる。戦国時代に入ると、戸沢氏一族の門屋氏が居城とする。1590年(天正18)、豊臣秀吉の命で破却された。現在、本丸跡に三嶽神社が建ち、井戸跡や礎石などに城砦の面影を残している。



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